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  • 執筆者の写真TOMO

四国霊場・ポータラカ(2)最果の旅

更新日:2021年2月20日


四国最南端、足摺岬―。四国の辺路をゆく最果ての地。昔の遍路たちは、太平洋沿いに砂浜を歩き、四万十川を船で渡り、岬の崖をつたい、道なき道をかきわけて、岬にある聖地を目指した。そこに行けば必ずや救われる、苦しみを癒し、祈りを叶えてくれる菩薩が住まう…極楽浄土の風が吹いている…最果ての地へと。


◌第38番霊場・金剛福寺(足摺岬)/海の彼方へ

四万十町にある第37番霊場・岩本寺から約90㎞、四国の最南端に第38番霊場・金剛福寺がある。歩いて2泊3日、四国八十八ヶ所の中では、札所から札所まで一番長い遍路道となっている。太平洋に沿って進み、自然の砂浜が美しい入野松原を過ぎて、清流四万十川を渡る。

新伊豆田トンネルを抜けると「真念庵」がある。真念法師は江戸時代の行者であった。二十数回四国八十八ヶ所を巡礼され、1680年代に日本初の四国遍路のガイドブック「四國徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)」や「四国遍礼功徳記」を著されている。森に囲まれた真念庵の境内には、苔むした八十八体の石仏が静かに並んでいる。古びた庵は昔、行き交う遍路たちの宿泊所にもなっていたらしい。

真念庵から、足摺岬までは約30㎞、歩いておよそ1日の旅程である。野山に南国の香りが漂い、海辺には潮の香りがする。

岬の先端にある金剛福寺は「補陀洛(ふだらく)東門」と呼ばれている。本尊は「三面千手観世音菩薩」。慈悲の眼で太平洋の水平線を端から端まで見渡し、千の手で悩める人々を救われるのだという。本尊を護るかのように多くの如来や菩薩・明王たちが本堂を取り囲んでいる。

補陀洛とは「ポータラカ」の漢字で「観世音菩薩の聖地」を意味している。

言い伝えでは、この足摺岬から「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」といって、海の向こうにあるという「観音浄土」をめざして、船出した人々がいた。二度と帰ってこない覚悟で、海の向こうへと旅立ったそうである。その小舟のつくりは独特だったらしい。

ある人は太平洋に漂流したまま大海原に消え、ある人はある島にたどり着いた。そこは沖縄だったという言い伝えもある。また、岬には自殺の名所があり、切り立った断崖から海原へと、最期の決意を持って身を捧げた人たちもいた。

海の彼方の憧れの聖地とは。約一万二千年以上も前、太平洋の真中に存在していたという「ムー大陸」を想い出させる。

「ムー大陸」の存在は、19世紀、失われた大陸を調査・探求していたイギリスの探検家、J・チャーチワードの著書に詳しい。また、日本の古伝「竹内文書」にも、大昔太平洋上にあった「ミヨイ国、タミアラ国」という記事がある。「ムー大陸」は此の世の楽園であった。人々は天地の創造主を尊び、自他の区別なく働き自由で幸福な生活を謳歌していた。

宇宙科学が発達し、野山を宇宙船が飛び交い、豊かな食糧を人々は分かち合って平和に暮らしていた。街は自然と調和した様々な芸術美であふれ、一大テーマパークのようであった。しかし、いつの日か人々の間に利己主義や傲慢さがはびこり、利権を貪り争うようになり、次第に国は腐敗していった。ついに、大自然が介入して、地震と津波によって、大陸は太平洋の奥底に沈んでいったのである。

このことを予見していた「ナーカル」と呼ばれる兄弟団たちは、ムーの聖典「聖なる霊感の書」を携え、大陸が沈没する前にアジアの各地へと旅立っていった。チャーチワードは、その書の石板をインドとチベットの僧院で発見し、解読したと記している。

インドの古代ヴェーダ聖典はその流れをくむものと言われ、仏陀もそれを学ばれていた。

「卍」の原型はムー大陸から伝わり、四つの原動力を現している。密教の胎蔵マンダラにも見て取れる(四如来・四菩薩)。密教はインド(天竺)からチベットを経て中国に伝わり、9世紀、空海によって日本に伝えられた。空海は祖国の古神道を尊崇しつつ密教の実践によって、地上の楽園ー密厳浄土ーを創ろうとされていた。「高野山」がその仏都であり、その方法の一つが「四国遍路」である。

足摺岬の断崖に立ち、海の向こうを見ていると「母なる国・ムー」の風が吹いて来る。

ポータラカ…海の向こうに菩薩たちが住む美しい楽園がある―。追憶の中、それはいつしか遍路風にとけ入り、旅人の祈りとなるのであった。

足摺岬温泉郷にもなっています。足湯をしながら海を見れる場所もあります。岬の自然遊歩道は格別で、展望台から日の出を見たり、七不思議を巡ったり、2月には椿のトンネルを通ることができます。岬の高台には ‘唐人駄馬遺跡’という縄文時代の巨石群があり、パワースポットになっています。)


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